築江戸後期(元商店) 天保年間? |
築江戸後期(醤油) 本町に醤油醸造業が3軒あったが現存はここ1軒である |
鍵路地(鍵形にずらしてある) 城下町の特徴を残すが、 新築の際は消防法により やや後退することを求められ 次第に失われつつある |
築江戸後期(元本陣=中央屋根) 横綱「谷風」も宿泊した 本町通りからその面影はない 当時の門は石火矢町住居に移設されている |
築江戸後期・大正(元醤油) 現商家資料館(蓄音機の館)軽食あり どこの住居も居室は城に近い上手に、通路は下手にある 下手(南)より |
平成9年(医院の門) 新しい建物も景観保存に協力する 医院開設当初、設計を変更して医院建物を和風にし門を併設した |
同上 上手(北)より |
平成17年(駐車場の門) 門を作ることで空き地と言う歯抜け状態を一応解消できる(粉飾?) |
築大正、平成改修(鮮魚店) |
築江戸後期 平成16年改修 |
築大正(元醤油) |
築昭和初期 |
方谷林”一本松”から見た平成17年(左)と昭和初期(10年〜12年の間、右)の本町方面 1)高梁整形外科医院 2)同駐車場 3)上図最上段左右の町屋 4)右2段目の元本陣屋根(現在南1/3が失われている) 5)右5段目の町屋 こうして見ると多数の歴史的甍が失われているが、他の資料を見る限り昭和40年頃までの変化は少ない。その後、新しい建物に変わったと言うより建物自体が失われている。高度経済成長と共に若者が都会に進学しそのまま帰らなくなり、一方では高梁の商業中心地が南に移動して本町が取り残されたこともあるだろう。 赤矢印は猿尾(昭和9年水害で損壊し、その後国道180号線下に姿を消した)。これは後にケレップとも呼ばれていたそうだが、ケレップとはオランダ語の Krib のなまりで、川の流れを中央に集めて水運のための水深を確保する技術として明治初期にオランダ人技師が伝えたものであって、水谷公築造の猿尾とは本来形状が異なる。ケレップ水制は木曽川や旭川河口付近に残っている。 右写真は「目で見る新見・高梁の100年」(郷土出版社、平成12年)収載写真の一部(転載許可済み) |