高梁市本町街並み保存の取り組み

 

 高梁市本町は備中松山城(右図)下の商家街であり、武家屋敷であった石火矢町と並んで江戸時代の街並みが残っている。高梁市は古い商家の老朽化に対して、改修助成金を出して町屋が失われて行くのを防ぐ一方で、本町町内ぐるみで商家の活用方法を模索している。この地も例外なく少子高齢化の波にすでにどっぷり浸かっており、放置すれば街並みは歯抜け状態となり、改築されたとしても目新しい建物に変わることで古の面影は失われてしまう。何とか城下町の風情を残し、かつ現代にとけ込むことが出来れば幸いである。ここに、いくつかの例を展示します。

 高梁の市街地は元々河川敷ないし氾濫原であり、古墳時代より中世まで高梁盆地の東側を流れていた。御前(御崎)神社、頼久寺、薬師院、松蓮寺などは流域の東岸にあたる。その後1500年頃におよそ現在の川筋に変わり、小堀政一(遠州)備中代官により元和2年(1616年)に新町・本町が出来たという。本町一帯は元々河川敷にあたり、今でも掘れば砂礫・岩礫が出現する水はけの良い土地であり、住宅改修の際、川に降りる石段なども見つかっている。
 元和3年小堀氏の近江移封に伴い池田長幸備中守が因州鳥取より家臣団を引き連れて赴任し、家臣を備中松山城山麓一帯に配置し、元和4年(1618年)商人を本町・下町に、職人を新町・鍛冶町に移したという。寛永19年(1642年)入封した水谷伊勢守勝隆・勝宗二代で高梁川の大改修(新見〜高梁、船穂付近)が行われ、本町〜下町沿いの高梁川には護岸と高瀬舟船だまりを兼ねた猿尾(さろお)が点々と築造された。かつて当院裏手付近にこの猿尾があり、介護部門の「たかせぶね」名はこれに由来している。寛文10年(1670年)には南町が出来、ほぼ城下町の形態が完成して今日に至っている。
 元々氾濫原であるからには有史以来度々水害の記録があって不思議でない。明暦元年(1655年)、享保6年(1721年)、明治13年(1880年)、明治26年(1893年)に市街地床上浸水被害があった。昭和9年(1934年)9月21日には室戸台風で小高下川、紺屋川から多量の土砂が市街地に流入し、高梁川の氾濫と相まって甚大な被害となった。本町町屋の一部では流出土壁のあとをセメント補修しており、その痕跡を残している(右図)。昭和47年(1971年)梅雨集中豪雨時には、成羽川ダムの放水により水かさが増して成羽川流域〜落合〜広瀬に被害をもたらした事は記憶に新しい。
 一方市街地は宝暦6年(1756年)鉄砲町、弓之町、南町、東町が焼失。天保3年(1832年)には大火あり、向町、柿木町、大工町、中之町、片原町、新町、本町、川端町が全焼しており、本町にはそれ以前の建物は現存しない。天保10年(1839年)の大火は間之町、柿木町、八幡町〜大工町、鍛冶町、下町、中之町、頼久寺町、石火矢町方面が消失したが本町は免れている。明治年間にも本町3区で限定的火災があった。従って本町1・2区に現存する建物は天保年間以降と言うことになる。

資料:「高梁市史」:高梁市史編纂委員会編、昭和54年(1979年)
latest update 2006.02.10
築江戸後期(元商店)
天保年間?
築江戸後期(醤油)
本町に醤油醸造業が3軒あったが現存はここ1軒である
鍵路地(鍵形にずらしてある)
城下町の特徴を残すが、
新築の際は消防法により
やや後退することを求められ
次第に失われつつある
築江戸後期(元本陣=中央屋根)
横綱「谷風」も宿泊した
本町通りからその面影はない
当時の門は石火矢町住居に移設されている
築江戸後期・大正(元醤油)
現商家資料館(蓄音機の館)軽食あり
どこの住居も居室は城に近い上手に、通路は下手にある
下手(南)より
平成9年(医院の門)
新しい建物も景観保存に協力する
医院開設当初、設計を変更して医院建物を和風にし門を併設した
同上
上手(北)より

平成17年(駐車場の門)
門を作ることで空き地と言う歯抜け状態を一応解消できる(粉飾?)
築大正、平成改修(鮮魚店)
築江戸後期
平成16年改修
築大正(元醤油)
築昭和初期

 方谷林”一本松”から見た平成17年(左)と昭和初期(10年〜12年の間、右)の本町方面
1)高梁整形外科医院 2)同駐車場 3)上図最上段左右の町屋 4)右2段目の元本陣屋根(現在南1/3が失われている) 5)右5段目の町屋 
こうして見ると多数の歴史的甍が失われているが、他の資料を見る限り昭和40年頃までの変化は少ない。その後、新しい建物に変わったと言うより建物自体が失われている。高度経済成長と共に若者が都会に進学しそのまま帰らなくなり、一方では高梁の商業中心地が南に移動して本町が取り残されたこともあるだろう。
赤矢印は猿尾(昭和9年水害で損壊し、その後国道180号線下に姿を消した)。これは後にケレップとも呼ばれていたそうだが、ケレップとはオランダ語の Krib のなまりで、川の流れを中央に集めて水運のための水深を確保する技術として明治初期にオランダ人技師が伝えたものであって、水谷公築造の猿尾とは本来形状が異なる。ケレップ水制は木曽川や旭川河口付近に残っている。
右写真は「目で見る新見・高梁の100年」(郷土出版社、平成12年)収載写真の一部(転載許可済み)
 写真のいくつかの背景に違和感ある建物が見える。これこそが町並み保存運動の契機となった。1枚の写真からはこれを消去しています。さあどれでしょう?



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